<校長室より>東予地区人権・同和教育研究協議会 助言
2020年11月18日 09時02分東予地区人権・同和教育研究協議会(R2.11.17)学校教育部会 中学校教育分科会 2年授業報告・研究協議 助言
今年度は新型コロナウィルス感染症対策のため、皆さんは実際に授業を見ずに報告を基にして研究協議を行うということでやりにくかったと思いますが、たくさんの方に意見や思いを発表していただき、ありがとうございます。
私は司会者と共に、先々週の金曜日に実際に授業を参観せていただきました。授業報告にあったように、学級の生徒たちはみんな仲が良く、落ち着いて授業に取り組んでいました。そして、西光万吉さんの生き方に思いを巡らせ、部落差別に対する怒りや憤りを感じ、自分自身の生き方を見つめ直す時間になったと思います。最後に授業者の熱い思いを語っているときの生徒たちの真剣なまなざしが、それを物語っていました。この時間内には、生徒たちは自分自身のこれからの生き方を周りに発言する機会はなかったのですが、次の授業で生徒全員一人一人がこれからの自分の生き方を発表し合ったということで、自分の思いを言葉で語ることができたのだと思います。こちらの授業も見てみたかったです。やはり自分の意見や考えを学級内で堂々と発表することやそれができる雰囲気づくりが、この部会の協議題である「差別や偏見を解消する意識をもってつながり合う仲間意識を高める活動」になり、差別解消のための実践力の第一歩になるのではないかと思います。授業者の質問①に「そのような集団にするために、どのような手立てが有効であるか」とありましたが、それはたとえ発言者の意見や考えが正しくないと思われた場合でも、その思いを受け止め、発言者を尊重して落としめることのないよう、それに対して自分の意見を堂々と発表し、話し合うことができることだと思います。そのためにも親や教員など大人の発言や行動が手本になってきます。皆さんは失敗した子供に対して、「それはちがう」とか「こんなことも分からないのか」など子供を傷つけるような発言をしていないでしょうか。それがその集団の雰囲気になり、これでは自信をもって発表できる集団にはなりません。
その点、授業者は子供の発言をすべて受け止め、尊重しながらも間違っていることは正しく修正し、授業を進めていました。この態度や行動が、人権・同和教育そのものなんだと思います。普段の授業や生徒への接し方も同様ならば、この学級は自信をもって発表できる集団に段々となっていくことでしょう。
また、質問②の賤称語の押さえとしては、授業報告にあったナイフのたとえは、具体的で生徒たちにもよく分かったと思います。皆様からご意見もとても参考になり、私も勉強になりました。ありがとうございます。
差別がいけないことはみんな分かっていると思います。そして、差別を意識的にしようと思ってしている人はほとんどいないと思います。でも、自分が気付かないうちに差別していることが多くあります。皆さんは自分は差別をしていないと自信をもって言えますか。言える人はもしかして気付いていないだけなのかもしれません。差別しないためには、物事を科学的に正しく知ることと相手の心情を思いやり、より添うことが大事です。小さい頃から、「自分がされて嫌なことはしない」と教えられ、今は子供に言っていると思いますが、自分の嫌なことと相手の嫌なことは同じとは限りません。「相手がされて嫌なことはしない」ためには、相手を正しく知るために関心をもち、相手の心情を思いやる感性を高めていきましょう。そして、自分は差別をしてるかもしれないと、客観的に自分自身を見つめ直してみましょう。
ときとして、相手のことに関心をもたず、十分に知らないままでいると、偏見や思い込みをもつことがあります。現在坊ちゃん劇場で「鬼の鎮魂歌」という作品を上演しています。この作品は、日本を代表する民話である桃太郎伝説を題材に創作されたものです。幼い頃に私が知っていた桃太郎の話は、ドンブラコドンブラコと流れてきた桃から生まれた桃太郎が、鬼ヶ島へ鬼の討伐に行くお話です。おそらく皆さんもそう思っているのではないでしょうか。でもどうして鬼は征伐されたのか。本当に悪いことをしていたのか。私の知っている桃太郎の話とは全く違っておりました。これ以上言うとネタバレになってしまうので言いませんが、この作品を観て、なぜ差別が起こるのか、なぜ争いが起こるのか、について改めて考えさせられました。このような作品を観ることも立派な人権・同和教育になるのではないかと思っています。まだ観られていない方はぜひともご覧ください。
話が少しそれたので、もどします。差別しないためには物事を科学的に正しく知ることと、相手の心情を思いやりより添うことが大事だと言いました。でも、それだけでは不十分です。差別だと気づいた時には、その場でその差別をなくための行動をとることが大切です。「差別をしない」から「差別をなくす」という、「思い」から「行動」に移すことが、今、私たちに一番求められていること、必要なことだと思います。思いだけでは何も変わりません。授業の最後に、子どもたちに、今、自分にできる行動を考えさせるのは、普段の日常生活の中で行動していくことが大切だからだと思います。
また、今年の前半はコロナ差別・・・新型コロナウイルス感染症に関連して,感染者・濃厚接触者,医療従事者やその家族等が、誤解や偏見に基づく不当な差別的取扱いを受けるなど許せない事例が報道されました。中世の鎌倉~室町時代に災いが多く起こり、「ケガレ」を「キヨメ」る役割を果たしていた人々に対する畏敬の念が、畏怖へ、賤視へと変わっていったこととよく似ています。それは、人間は災いやウィルスなど見えない敵への恐怖から生き延びようとする本能が、ケガレやウィルス感染にかかわる人を見える敵と見なし、自分の身の回りから排除することで安心感を得るということです。この点において、中世の差別と今回の差別問題とはかなり似ていると思います。今では、科学的に新型コロナウイルスの正体が理解できているので、そのような差別は減ってきていますが、昔は災いの正体が分からず、差別が続いていたのだと思います。もっと言えば、コロナウイルスは、科学的に拡大すれば見えますが、部落差別の原因は科学を使っても見えません。見えるはずはありません。そこには何もないのですから。この点からも、差別の根源は制度にあるのではなく、むしろ人間の心の中にあるのではないでしょうか。
皆さんご存じのように、水平社宣言は、日本における唯一の人権宣言であり、「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」という言葉に表されるように、全ての人が自らの差別意識から解放されることによって、人と人とが尊敬し合える社会が実現できると述べています。差別は差別する人がいるから生まれる。しかし、差別する人を悪の原因と決めつけて終わるのではなく、なぜ差別するのかにまで考えを巡らせ、差別をなくすにはどうするかを考え、行動していきたいものです。先ほど「人間(にんげん)に光あれ」ではなく「人間(じんかん)に光あれ」と読みましたが、もともとはこのように読んでいました。人間に個別に光があたるんじゃなくて、人と人の間の万物すべてに光があたることで、人と人が平等になるという意味なのです。
「部落差別の解消の推進に関する法律」が施行されて4年が経過しようとしています。人権・同和教育の推進は目的ではなく手段です。目的は「部落差別のない社会を実現すること」にあります。もっと言うと、教員は人権・同和教育の授業をすることが目的ではありません。その授業をすることで、子どもたちが部落差別をなくしていくために、地域の方たちと共に、差別をなくすための行動ができるようになり、最終的に部落差別のない社会を実現することが目的なのです。
本日この場には学校の先生方が多くおられると思いますが、
①部落差別の解消に向けて歴史的背景から被差別部落の現実に深く学ぶ。
②教える側が部落差別をなくす側に立つ。
③生徒たちと向き合い、そして、地域の方々と力を合わせる。
このようなことを通して、教職員が人権・同和教育を推進し、差別に立ち向かい解消していこうとする生徒を育てていきましょう。
以上です。